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うどん学校・ラーメン学校・そば学校・パスタ学校で開業&成果アップ|「イノベーションと起業家精神(最終)」「傲慢への挑戦、単純なものが成功する」

讃匠の新年度経営方針発表会の様子です。全員集合での改まった会合で、皆、熱心に聞き入っていました。

来来週17日(日)から19日(火)までの3日間、ドリームスタジオ高崎で、1年ぶりののパワーアップ・イベントを開催し、私のセミナーも現在の時流に合わせ、多くの方の悩みである、次の3つ(①麺専門店の事業計画書作成&物件選び&レイアウト作成のポイント大公開!、②これであなたも悩まない、究極の人手不足解決法はこれだ!、③究極の売上対策!)を用意しました。
http://www.yamatomfg.com/events/detail.php?id=2142

本日のテーマは「忍耐力」です。

昨日は、朝から讃匠の経営会議、12時から昼食を兼ねて面接、その後、継続して経営会議、午後3時から全社挙げての讃匠の新年度経営方針発表会と、1日中讃匠のイベントが続きました。

丁度、新しい期が始まり、昨年までは大和のビジネスと讃匠のビジネスが切り離されていたのですが、前期末から、大和の自家製麺代行業で受けた麺の製造を讃匠が行なうようになり、大和と讃匠のビジネスの関連が深まり、連携作業が増えてきたのです。

大和の創業は40年前で、讃匠の創業は32年前ですが、大和の創業8年後にはすでに麺ビジネスを開始し、その頃の私は、製麺機の開発、販売と併せて、麺工場の運営、麺の製造販売とたいへん多忙な日々を送っていたのです。

大和も創業間もないころで、その頃は九州から始まった製麺機の販売も関西を済ませ、関東まで攻め上っている時期で、蕎麦用製麺機『坂東太郎』の開発を終え、大型の自動製麺機の開発もほぼ終えていたころであったのです。

大型の自動製麺機の開発を終えていて、販売を伸ばすために実演する自前の麺工場が必要になり、製麺機の販売のために作ったのが、讃匠の創業のきっかけであり、その頃、小学校の先生を定年退職していた家内のお袋と一緒に、お袋が住んでいた丸亀の家内の実家の一部を使っての創業でした。

麺の実験工場としてのスタートした工場であったのですが、この様に独り立ちできる会社になるとは、最初は考えもしていなかったのですから不思議なものです。

讃匠は、最初は軌道に乗るのが少し時間がかかりましたが、どこにも負けない麺の美味しさと防腐剤を一切使用しない安全な麺が評判になり、大和に比べると、立ち上がりはスムーズであったのです。

それには、その後、讃匠の会長になった家内のお袋の尽力も大きく、3年前に亡くなるまで、毎日丸亀売店に出て、お客さまの応対をし、讃匠を自分の子供の様に思っていたのです。

讃匠の麺工場を作ったときに、保険所の検査の方が来て、「香川県の製麺所はみな、廃業している時代なのに、今から麺工場を作るのは遅いのでは?」と、言われたくらいであったのですが、賢明な販売努力で県内の製麺会社としては、中規模の会社になることが出来たのです。

6年前に大和が新本社に移転するに合わせて、讃匠も同じ建物の3階、4階に事務所、作業所、工場関係すべて1ヶ所に集中したのです。

それまでの工場は一部借り物で、建物は古く、衛生状態も良くなかったので、新本社では衛生の行き届いた、見学工場にしたのです。

以前の古い工場とは比較にならないくらい清潔な工場になり、衛生も行き届き、作業環境も非常に良くなり、麺工場として、お客さまに案内しても恥ずかしくないレベルになることが出来たのです。

以前と比べると、働く人たちの環境は比較にならない位に改善されたので、移転後は業績が大きく良くなることを期待していたのですが、この5年間は残念ながら、讃匠に大きな変化は起きなかったのです。

しかし、今期からは大和と連携したビジネスが増えるので、讃匠の方も大和に触発されて変わらずを得なくなります。

5年前までの大和、讃匠グループは、地元だけでも全9ヶ所にさまざまな事業所が点在していたのを新本社移転と共に、それらを全部まとめて本社に集中したので、事業全体を見渡すことが非常に楽になってきたのです。

念願であった食堂も完成し、さまざまな点で非常に改善されたのですが、讃匠の業績にはまだ残念ながら影響が及んでいないので、いよいよこれからが本番であると思っています。

耐えたに耐えた、長かった5年間ではありますが、やっと日の目を見るときが来たような気がし、5年間ではありますが、耐え忍んだことに対する自信が少し芽生えています。

私は常々、『ビジネスの成果=責任×夢×情熱×意志力×集中力×経験×直観力×忍耐力』であり、ビジネスはすべてプロセスであるので、タイムラグがあり、そのために忍耐力が必要であると言っているのです。

苦しい時に辛抱して耐える忍耐力は、ビジネスには欠かせず、奮闘の精神で頑張り続けることも、ビジネスには欠かせないのです。

昨日の経営会議で讃匠の価値感を大和と同じく、以下のように明示したのです。

『讃匠の価値感』
1.顧客を中心に据え、奮闘者を根幹とし、苦しい奮闘を長期にわたって続ける(コミュニケーションの大切さ)
2.自己批判(内省、フィードバック)

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3.オープンな姿勢と進取の精神(イノベーション)
4.効率の追求(利益、コスト)

そして、本日のフェイスブックを書きながら、自己批判の反対は傲慢であることに気づいたのです。

ビジネスの失敗の原因の多くは傲慢から起きているのです。

丁度1年前の昨年2月21日から始まった、半年間以上に及ぶ、「イノベーションと起業家精神」の学びの最終のまとめに取り組んでいきます。

◆傲慢への挑戦

産業構造の変化を利用するイノベーションは、その産業が一つ、あるいは少数の生産者や供給者によって支配されているとき、効果が大きく、長い間成功をおさめ、挑戦を受けたことのない支配的な地位の生産者や供給者は、傲慢になりがちであり、新規参入者が現れても、取るに足らぬ存在、素人にすぎないと見て、その新規参入者のシェアが増大を続けても、対策を講じることができず、AT&Tにしても、長距離通話割引業者やPBXメーカーに対する対応を取りはじめたのは、それらか出現して10年後で、タイレノールやダトリールなどいわゆる「非ピリン系アスピリン」が現れたとき、アメリカのアスピリン・メーカーの対応も緩慢だった。

ここでもイノベーションを行なった者たちは、市場の急激な成長によって産業構造の変化が起ころうとしていることを知り、そこにイノベーションの機会を見出し、当時、アスピリンをつくっていた大製薬会社が「非ピリン系アスピリン」を開発できない理由はなく、すでにアスピリンの限界と危険は周知のことであり、それを指摘する文献もたくさん出ていたのにもかかわらず、5年から8年もの間、新規参入者は市場を独占することができたのです。

アメリカの郵便も、長い間、新規参入者に利益の大きな分野を奪われることに対し、抵抗できず、初めにユナイテッド・パーセル・サービスが利益の大きな小包に進出し、次いでエミリ・エアフライトとフェデラル・エキスプレスが、さらに利益の大きな速達や書留に進出し、郵便の地位を危うくしたものは、市場の急激な成長で、成長市場の軽視が、外部からのイノベーションを招き入れたのです。

産業構造の変化が起こっているとき、リーダー的な生産者や供給者は、必ずといってよいほど、市場のなかでも成長しつつある分野のほうを軽く見て、急速に陳腐化し、機能しなくなりつつある仕事の仕方にしがみつくのですが、それまで通用していた市場へのアプローチや組織や見方が正しいものでありつづけることはほとんどなく、イノベーションを起こした者は、気付かずに放っておかれ、昔からの企業は、古い市場において、古い方法で一応の満足すべき成果をあげていて、外部からの新しい挑戦に注意を払わず、大目に見るか、まったく無視するのです。

◆単純なものが成功する

産業構造の変化をとらえるイノベーションが成功するためには、1つだけ重要な条件があり、単純でなければならないということであり、複雑なものはうまくいかないのです。

ここに一つの例があり、ドラッカーの知るかぎり、最も賢明な企業戦略でありながら、惨敗した例で、1960年前後に起こった自動車市場のグローバル化の引き金を引いたのは、フォルクスワーゲンで、ビートル・モデルは、50年前のT型フォード以来、はじめてのグローバル車で、アメリカでも、ドイツと同じように、あらゆるところで見ることができ、タンザニアでも、ソロモン諸島と同じように人気があったのですが、フォルクスワーゲンは、賢明でありすぎたために、自らがもたらしたイノベーションの機会をものにすることができなかったのです。

世界市場に進出して10年後の1970年頃、ビートルはヨーロッパで飽きられはじめていたのですが、ドイツ本国に次ぐ大きな市場だったアメリカでは、まだかなりよく売れていて、3番目に大きな市場だったブラジルでは、さらに大きな成長の余地が残り、新しい戦略が必要だったので、フォルクスワーゲンはビートルの後継車の生産には、ドイツ工場をあてることにし、アメリカ市場での需要に対してはブラジル工場をあてることにし、フォルクスワーゲン・ド・ブラジルは、成長を続けるブラジル自動車市場において、トップの地位を10年間は享受できるだけの生産能力の拡大を行ない、フォルクスワーゲンは、アメリカのユーザーにとって魅力の一つだった「ドイツの品質」を保証するため、エンジンやトランスミッションなどの重要な部品はドイツ工場で生産し、最終組み立てをアメリカ工場で行うことにしたのです。(以上の戦略は、物流が複雑に込み入っていて、今日の開かれたグローバル経済では当たり前ですが、45年前は複雑すぎて、社会体制が対応出来なかったのです。)

これこそ世界各地の市場のニーズに応え、世界各地で部品を生産し、世界各地で組み立てを行うという世界初の真のグローバル戦略というべきものであり、もし実現すれば、正しい企業戦略、しかも革新的な戦略となっていたはずでしたが、この戦略は主として「アメリカでの組み立ては、雇用の輸出であるから認められない」とするドイツの労働組合によってつぶされ、アメリカのディーラーも重要な部品はドイツ製であるとしても、それ以外の部品がブラジル製の車には懐疑的であり、フォルクスワーゲンは、その賢い戦略を諦めざるをえなかったのです。

その結果、フォルクスワーゲンは、第2の市場たったアメリカを失い、そもそも、イランのシャーの失脚を契機とする第2次石油ショック後の小型車ブームのとき、アメリカの小型車市場を手に入れるはずだったのは、日本車ではなくフォルクスワーゲンだったのですが当時、フォルクスワーゲンには売るべき車がなく、しかもその数年後、ブラジルで深刻な不況により自動車の売り上げが落ちたとき、フォルクスワーゲン・ド・ブラジルが苦境に陥り、増設した生産能力のための輸出先がなかったのです。

この頭のよい戦略が失敗し、フォルクスワーゲンの将来までおかしくすることになった具体的な原因は、ここでは二の次の問題ですが、フォルクスワーゲン物語の教訓は、産業構造の変化にもとづくイノベーションは、複雑すぎると失敗するということにあり、成功のチャンスは、単純で具体的なイノベーションにこそあるのです。

フォルクスワーゲンのビートルは、第2次世界大戦後、同じモデルで、世界中で良く売れたベストセラーであり、ロングセラーである、オートバイのカブのようなモデルで、主力モデルである「タイプ1」は、その耐久性と経済性、そして優れたアフターサービス体制で世界の市場から圧倒的な支持を得ることに成功し、「ビートル」の愛称で広く親しまれたこの古風な流線型車は、アメリカをはじめ全世界に大量輸出され、貴重な外貨を獲得して西ドイツの戦後復興に貢献したのです。

2003年のメキシコ工場における生産終了時点までに生産された台数は2,152万台以上に上り、モデルチェンジなしでの1車種としては未曾有の量産記録となっていて、おそらく四輪自動車で、今後もこれを破る記録は現れないと言われているのですが、最初に本国のドイツで陰りが出て、次にアメリカ市場では思わぬライバルとなった日本車に負け、そのうち、世界中で生産、販売が徐々にストップしたのです。

1965年には、従来ダイムラー・ベンツ傘下にあり、今日のアウディAGの前身であるアウトウニオン社を生産体制強化のために買収したのですが、ビートルの余りに大きすぎた成功は、後継モデル開発の妨げともなり、「フォルクスワーゲンすなわちビートル」というイメージの強さ、空冷リア・エンジン方式というレイアウトが、1960年代に陳腐化したにも関わらず、根本的変更が遅れたことなどが災いし、新型車を世に問うても決定打を欠くという低迷期が、1960年代後半以降長く続いたのです。

フォルクスワーゲンは、傘下としたアウトウニオン(現アウディ)の前輪駆動技術をも応用して、1970年以降の新型車について前輪駆動化への動きを進め、1974年に至り、スペース効率に優れた前輪駆動のハッチバック車ゴルフを開発し、その機能性が市場に受け容れられてベストセラーとなり、ようやくビートルを代替できるモデルを得、以来、その延長線上に各種の機能的な小型車を多数送り出し、ヨーロッパを代表する大衆車メーカーとしての地位を確立したのです。

1980年代以降は、それ以前の南米などへの工場展開のみならず、既存メーカーの買収をも進めるようになり、1984年には、上海汽車との提携で中国市場へ参入、また1991年にはチェコの老舗メーカーであるシュコダ、1996年にはかつてフィアット系だったスペインのセアトを傘下に入れ、東欧・南欧での拠点をも確保したのです。

以上のように、ビートルのもともとのデザインが、ヒットラーの国民車の発想がベースになっているので、コンパクトで、室内のスペース効率がよく、エンジンを始め、すべてのスペックのレベルが高かった現代的な日本車に比べると、1~2世代前の車であったので、大市場であった、アメリカでも徐々に日本車に駆逐され、完全撤退をせざるを得なくなり、その後、アメリカ市場は日本車の市場になってしまったのですが、その代わり上記のように、現在、世界最大の市場になっている中国への参入は、日本車よりも早い段階で参入し、外国車では、トップ・シェアを誇っているのです。

要するに、フォルクスワーゲンは、長くビートルが売れ続けていたので、新しい車の開発に遅れ、安心領域に止まっていたのですが、現在では、フオルクスワーゲンは世界市場において、トヨタとトップ争いをしており、車の魅力、高級車から普及車まで幅広く揃え、フルライン化が最も進んでいる自動車メーカーになり、進化の早い、競争の厳しい自動車市場において、こんなに成功する自動車メーカーになることは、ビートルが失速をした頃には、想像も出来ず、自動車としての本質的な魅力を高めながら、デザイン力を高めたフォルクスワーゲンの底力は、非常に強くなっていると言わざるを得ず、われわれは、フォルクスワーゲンから学べることはたくさんあるのですが、最近、起きたデイーゼルエンジンの排ガス偽証問題は、フォルクスワーゲンの屋台骨を揺るがすような世界的な大問題に発展しているのです。

フォルクスワーゲンに比べ、日本車は、北米市場で大勝利をしたので、中国市場への参入は遅れ、中国市場はこんなに早く現在のような状態になるのは、想定していなかったのと、共産党独裁政治なので、日本車メーカーは取り組みが難かしく、日本車の中でも中国市場でトップのシエアを占めているのは、日本国内では3位のニッサンで、ニッサンは北米市場では、トヨタ、ホンダより、はるかに劣っているので、中国市場に注力せざるを得なかったという事情があり、北米市場で成功した企業は中国市場で出遅れ、反対に北米市場で上手くいかなかった企業は中国市場に賭け、これはまさに、塞翁が馬と同じで、上手くいった後は躓き、躓いた後は上手くいくという人間社会の性なのです。

画像は、讃匠の新年度経営方針発表会の様子で、途中で誕生日のお祝いがあり、その後、部門別の発表会がありました。

食堂で開催しましたが、全員集合での改まった会合で、皆、熱心に聞き入っていました。

今日も最高のパワーで、スーパー・ポジテイブなロッキーです。

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