麺づくりに込めた熱い想い

製麺機を売ることが目的ではありません。お客様の成功をサポートすることが、私たちの使命です。

自分の弱みを克服するきっかけ それは”そろばん”だった。

製麺機のご購入を検討されている皆様へ、私がなぜ製麺機販売を始め、麺ビジネスに生涯を捧げることになったのかをお話したいと思います。それでは私の幼い頃のエピソードから…。

私は小さな頃から背が高く、体も大きかったのですが、病弱で幼稚園にも行けませんでした。そのせいか人見知りが激しく、勉強も全くできませんでした。口の悪い親戚などからはバカ呼ばわりされ、よくからかわれたものです。そんな子どもだったので自信など持てるはずもなく、小学校に入学しても周りの人たちと上手くコミュニケーションがとれず、なかなか友だちができずにいました。そんな私をお袋は不憫に思ったのでしょう。

小学校4年の時、私はお袋のすすめでそろばん塾へ通うことになりました。決して余裕がある暮らしではなかったのですが、それでもお袋は月謝を工面して通わせてくれたのです。それが私の人生において大きな転機になるとは、あの頃は誰も思わなかったと思いますが…

自分の可能性を信じ、学ぶ日々。 やがて憧れの職に就く。

塾へ通い始めた私は、そろばんが性にあっていたのか、メキメキと上達しました。上達するとますます楽しくなって、そろばんは2級、暗算は段位を得るまでになりました。人生で初めて人よりもできる何かを見つけた瞬間でした。それがきっかけで算数が得意になり、私は今まで全く持てなかった自信を持てるようになりました。面白いもので、自信を持てるようになると、今まで無理だと諦めていたことが次々にできるようになりました。たとえできなくとも、努力してできるようになりたいと、そう考えるようになったのです。

そして当時、私が熱中していたことは他にもありました。模型飛行機づくりです。自分で言うのも何ですが、私の作る飛行機は他の人よりも出来がよく綺麗でした。羽の角度を計算し、軽量化したゴム動力のプロペラ機。滞空時間を競って私の右に出るものはいませんでした。遊びを通して飛行機への関心を深めた私は、やがて高松高専を経て川崎重工に就職しました。その頃、飛行機の設計は花形の職業​でしたが、私は憧れの職に就くことができたのです。

大企業を辞め一念発起、独立するも時代の波に翻弄される。

入社して7年、私は会社の仕事に没頭しました。飛行機の設計だけでなく、船の設計にも携わりましたが、仕事に情熱を傾ければ傾けるほどサラリーマンでは物足りなさを感じるようになりました。そこで、自動機械の設計を夢見て独立を決意します。昭和50年(1975年)のことでした。

しかし、私の起業に親類は反対しました。というのも、1975年はオイルショックの時代です。日本の景気が戦後最悪の時期だったので無理もありません。私は半ば押し切るように独立を果たしたのですが、やはり自動機械の仕事だけではすぐに立ち行かなくなってしまいました。そうして私は、大きな挫折を味わうことになったのです。

家族を養うには自動機械の仕事だけでは不十分でした。たちまち困窮し、設計であればなんでも請け負わなければならない状況の中、不眠不休で働きましたが、暮らしは一向に楽になりませんでした。振り返れば、私にとっても家族にとっても大きな試練の時だったのだと思います。
そんな私を、私の両親はもとより、家内や家内のお袋までが必死に支えてくれました。
何とか家族の苦労に報いたいと試行錯誤を繰り返していた最中、さぬきうどんの本場、地元香川で麺を扱う機械の設計、製造の話が舞い込みました。

独立した当初、私は設計のことしか考えていませんでした。もちろん、自動機械の設計がしたくて独立したわけですから当然ではあるのですが、現実を目の当たりにした私は、それだけでは食っていけないことを身をもって思い知らされたのです。
そして、設計はいくら一生懸命図面を引いても、図面を売ってしまえばそれでおしまいで、後には何も残らないことにも気付きました。その日から、製造という新たな挑戦が始まったのです。

製麺機作りの研究に没頭。 やがて、その本質に気付く。

製麺機の設計、製造を始めるにあたり、私は心機一転、社名を「大和製作所」としました。そこには日本一を目指すという決意が込められています。確かに、きっかけは生活のため、やむなく始めたことだったかもしれません。しかし、もともと物づくりが好きだった私は、次第に製麺機の設計や製造にのめり込んでいきました。

当時、香川県には既に数社もの製麺機を生業とする製造販売会社があり、私の会社は最後発での参入でした。そのため、他社との差別化が一番の課題であり、私は寝食を忘れて製麺機の研究に明け暮れました。
来る日も来る日も研究を続けていくうちに、お客様が求めているものは製麺機そのものではないことに気が付きました。お客様が心から求めているものは製麺機がもたらす価値、すなわち厳しい労働からの解放であり、美味しい麺が簡単にかつ安定して沢山できることで実現する繁盛であるのだと思い至ったのです。

トラックに製麺機を乗せてひたすら営業。門前払いされても諦めなかった。

お客様の求める製麺機をつくるには、美味しい麺ができなくては話にならない…。そう思った私は、それ程の規模も資金もないままに無理をして麺研究室を設け、麺の研究ができる環境を整えました。
その後、本格的に麺の研究を進めるために、半生うどんの製造販売を手掛けました。実際に製麺と販売を行うことで、麺作りのノウハウを構築する狙いがあったのです。
また、製麺機の差別化にも注力しました。従来の製麺機は単体機の寄せ集めで作業効率が悪いこと、設置をするにも非常に広い場所を必要とすることに着目しできたのが、業界で初となる一体型の製麺機です。コンパクトな製麺機は賞賛を浴びるに違いないと思っていましたが、その思惑は大きく外れました。型破りな私の製麺機は全く受け入れられなかったのです。
それで仕方なく製麺機をトラックの荷台に乗せて、私は営業回りを始めました。

私はまず人情味あふれる南九州へと向かいました。交通事情も現在のように便利ではない時代です。地図をハンドルの上に広げて、クーラーのないトラックで九州中を走り回りました。その頃の私は布団で寝た記憶がなく、自宅に戻るなり座ったその場で眠り込んでいたそうです。

営業を始めてしばらくは、苦しい日々が続きました。もっとも、どこの馬の骨ともわからない若造が高価で、しかも今までとは全く違う製麺機を持ち込んでくるのです。「ハイハイ購入しますよ」などと色よい答が返ってくるはずもありません。苦心惨憺してつくり上げた製麺機ですが、売れずにそのまま持ち帰ることの連続でした。

それでも私は諦めませんでした。販売店さんや個人のお客様のもとへ足しげく訪ねるうちに、1台また1台と、機械が売れるようになったのです。気がつけば、製麺機の製造と販売がわたしのライフワークとなり、そこから派生した麺ビジネスの全てが私の全てになっていました。

これからも麺業界を支え続ける 縁の下の力持ちでいたい

川崎重工から独立し、経済的にも精神的にも厳しい日々が続きましたが、私は絶対に諦めませんでした。ある時は資金繰りがストレスとなり、吐血し、一晩中病院のベッドの中で出血が止まらなかったのですが、日本一を目指して設立した大和製作所に自分の全てをかけてこの会社を守り抜きました。
それはまだまだ未熟な私を信じて製麺機を購入してくださったお客様を、どうしてもどうしても裏切れなかったからです。

また有り難いことにとことん困窮すると、その時々に救世主のように、私を助けて下さる方々に恵まれたことも、決して忘れられません。
ただ当時の私を助けてくださった方の殆どは、もうこの世にはいらっしゃいません。恩返しをしたくてもそれはもう叶わぬことです。
ですから私は、この業界に貢献し日本の麺業界の縁の下の力持ちになりたいのです。そうなれば、私の恩人はきっと喜んでくださると思うからです。

麺店の方々のお役に立ちたい。少しでも良い製麺機をつくり美味しい麺を無理なく提供していただきたい。
その情熱はますます燃え滾る一方です。
麺の研究、製麺機の研究、この業界の動向や未来について…。私にはまだまだ課題が山済みです。
とは言え、不器用は今も昔も変わりません。
生涯、地道にコツコツと誠実に麺ビジネスと向き合っていきたいと思います。

まだまだ至らぬことが多い当社ですが従業員一同、私と同じ思いで勤務しております。
もし、当社の製麺機を購入していただきましたらどうか末永く、 パートナーとして可愛がってやっていただければと思います。